人は何故本を読むのか
長き夜や 孔明死する 三国志 子規
The long night;
Reading the History of the Three Kingdoms,
Up to the death of Koumei.
最近、子規の句が多いような気がする、意識しているわけではないが、結果的に好きな人を選んでしまう、子規よりも一茶の方が面白いが、その割に彼の句が少ない何故だろう。
毎日、新聞を読みながら各面の下段が本の広告で埋められているのを不思議に思っているが眼を通すのが楽しい。たまに切り抜いて注文することがある。寂れてしまった商店街に「町の本屋さん」が頑張っている、ささやかな激励の意を込めてこの3年間ほとんどの本は、そこで購入した。本棚の一角に4,50年前の本が並んでいて古書店の趣も楽しめる。
実用書や小説類の広告多いが、ほとんど推理、時代小説、いわゆる文芸物は少ない。嬉しいのは学生時代馴染みの「世界」「中央公論」等が頑張っていること、極めて専門的と思える書名を見つけた時、例えばチェコ語やハンガリー語の入門書、高価なギリシャ語大辞典、中世荘園制の研究書などの広告を見ながら、今どき読む人が存在することを知らされたようで嬉しくなる。
「人は何故読書をするのか」最近考えるようになった。人間の本能には、食欲、性欲と同様に知識欲があり、それが読書の一因になっていると思えるので「人は・・・」と一般論にした、間違ってないと思う。読書は人間の本能的営みである。
人間は時間と空間の制約の中で生きる儚い存在であるが、限られた時空の制約を可能な限り押し広げて、より長く、より広い世界で生きることを願う。本が与える世界がそのことに応えてくれる。読書は行ったこともない場所と、何年も前の世界に読者を誘う。
文学作品の多くは、時には感動、時には反発しながら多くの違う人間と出会い、経験や考え方を深め、豊富にする。読書によって世界観、社会観、人間観が多様化する。
読書は多くの知識を与える、人間を賢く(クレバ)するが、真の賢さ=知恵(ワイズ)は本が与える知識を主体的に批判しながら実生活の中で確かめなければならない。多くの本を読んだだけの人は知識人や賢者、単なる観念論者にはなるが、知恵ある人にはなれない。よくTVに出る学者、評論家、知識人にはこういう人が多い。「テレビに出るバカ、出ないバカ」という言葉がある、「出ないバカ」は無害であるが「出るバカ」は聴視者が精査して仕分けしなければならない、そうでなければ、かつて大宅荘一(彼も仕分け対象者ではあるが)が言ったように「国民総白痴化」してしまう。
若い時「読書量の多い人は偉い人」と思い込んで我武者羅に本を読み、あちこちの読書サークルに顔を出し互いに読書量を自慢し合ったものだ、今思えば赤面の至りであるが、多くの本を読んだことは決して無駄ではなかった、読書の目的が間違っていたが、人生、そんな時があっても良いのではとも思っている。それも青春時代の生き方の一つではあった。