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2009年10月16日 (金)

「良い文章」からの自由

      三千の 俳句を 閲(けみ)し 柿二つ      子規

Examinig Three thousand haiku; Two persimons.

 子規の果物、特に柿好きは有名です。天下一品の柿を求めて、漱石から融通した金で奈良まで柿を食べに行ったほどです。その時の一句が「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」。果物であれば梨でも葡萄でもと思うが、子規には柿だった、この時も結核で静養中だったが柿の魅力には克てなかったのだろう。「柿あまた食ひけるよりの病かな」は奈良で柿を食べすぎた後の句だろうか?子規は「俳句革新運動」を進める中で多くのグループを創り、指導に励んでいる。松山に赴任した漱石の下宿に50日間同居して、毎晩句会を開いて指導している。「坊ちゃん」には書かれてないが、漱石も熱心に出席して「革新俳句」を学んでいる。

 子規が俳句に深い造詣を持ち、卓越した俳人であったことは事実になっている。俳句に興味はあるが全くの門外漢である私には、俳句を論ずることは出来ない。共感できるものが良いと思っている。芭蕉にそれがあまりないから、世人が名句と言っているものを名句と思わないだけである。

 敬愛する山田風太郎が「私は俳句など一句も作ったことはなく、また作ろうとも思っていないのに、ふしぎなことに古今の句集や評釈や俳人論など、比較的よく読む。しかし正直なところ、それらの句の何割かはよくわからないといっていい。」(風山房風呂焚き唄)を読んで嬉しくなった。子規は指導者として多くの俳句を読み「良し悪し」を判断したのだろう。

 俳句の良し悪しについて何も言えないが、最近「良い文章の書き方」に類する本が少なからず出版され、結構売れているようだ、「頭がいい人の文章の書き方」の類(たぐい)の本には抵抗を感じる。学校や会社の公文書、大学入試や入社試験の小論文、作文等、文章を書くことが求められる人は多く、それらが評価されることも多い。文章によって「頭の良し悪し」が判定されるとなると書く人は懸命になり、文章技術(作法=さくほう)に神経質になる。

 文章によって頭の良し悪しが分かるだろうか、「頭が良いとか悪い」とは何だろうと、ずっと考え続けている私には、たかが文章によって簡単に決めつけられては困る、腹が立つ。「文は人なり」は能力や知識でなく、文は人間性、個性を表わす意であることを知るべきである。50年以上、公私的文章を書いてきたから、とりわけ文章には拘りがある。

 若い時は「良い文章」を書こうとしていろんな本を読んだ、時には好きな作家の模倣をしたこともあるが借り物には満足できなかった。武者小路実篤や東山魁夷の絵や書を見て目が開いた。「稚拙でも個性があれば良い」と思うようになった。「良い文章」から自由になった。思ったことを素直に分かりやすく書くことに努めようとした。このブログもそんな気持ちで書いている、言葉や文字は不完全なもの、それに字数の制約があるから、理想とするものとはほど遠いが、私には文を書くことは楽しい、これからも個性豊かな「悪文」を書き続けます、忍耐と広いお心でおつき合い戴ければと勝手なことを考えています。