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2009年8月

2009年8月28日 (金)

「戦争と映画」(5)大戦後のヨーロッパレジスタンス映画

     牛部屋に 蚊の声よはし 秋の風     芭蕉

In the cow-shed,mosquitoes’s voices are faint;                    The wind of autumn.

 昨夜、一匹の蚊が腕にとまっていた「秋蚊」は「越冬つばめ」同様、哀れを誘う。太宰治の短編に「秋蚊」があると思っていたが無い、「斜陽」の中にあったかと拘っている。敗戦直後、日本社会から華族(きぞく)階級が消えた。特権や財産を失った人たちの多くが生活に困窮する、落ちぶれた旧華族をモデルにして太宰は小説「斜陽」を書く、「斜陽族」が流行語になった。旧華族の子女の中には夜の水商売に転じた人もいたと言われる。名門華族の娘、久我美子は東宝映画の第1期ニューフェイス試験(同期に三船敏郎がいる)に合格、黒澤明、今井正、市川崑、小津安二郎、巨匠・名匠と言われた監督作品に出演し大女優になる。彼女の出演した作品はほとんど観ている。懐かしい女優である。

 明後日、新しい衆議院議員が決まる。民主党が政権を取れば日本の憲政史上初めて主権者が首相を交代させることになる。まさに静かな革命が起こる。自由と民主主義を築き、守るために血を流したことがない日本人にとって主権者意識は希薄である。独裁者が出現して自由と主権を奪われても多くの人は黙々と従うだろう。しかし、明後日の選挙で1票の力を実感すれば意識革命が起こる歴史的選挙になる。希望と不安の中でその日を待っている。

 第2次大戦下、ナチスドイツによって占領支配されたヨーロッパ諸国の多くは、強大な権力に命懸けで抵抗した、彼らの戦いは「レジスタンス」(地下抵抗組織)と呼ばれ、何十万人もの犠牲者を出しながら、ドイツ軍の士気阻喪、かく乱戦を続ける。彼らを駆り立てたのは自由と民主主義を取り戻す、その一事だった。大戦後、レジスタンスの戦いを描いた映画を観るとその偉大さと壮絶さに圧倒されてしまう。

 フランスではルネ・クレマン監督のドキュメンタリー映画「鉄路の戦い」(46年)で鉄道労働者たちの抵抗、ドイツ軍の作戦を妨害するために軍事列車の方向を変え、関係者が銃殺される。指名手配された抵抗組織の幹部を給水車に入れて国外へ脱出させる。ドイツ軍は「一人の抵抗者に十人の銃殺」で報いるが抵抗は続けられる。クレマンは「禁じられた遊び」(52年)でも戦争の悲惨さを訴えている。以後、「居酒屋」(55年)で主演のマリア・シェルを世界的名女優にし、60年、無名のアラン・ドロンを「太陽がいっぱい」で抜擢した佳作を残すが以後は引退したのか記憶に残る作品はない。

 イタリア映画の巨匠ロベルト・ロッセリーニは「無防備都市」(45年)でレジスタンスに対するドイツ軍の凄まじい弾圧とそれに屈しない人々をを描く。特に拷問の凄まじさは目を覆うばかりである。指導者の神父に対する拷問も容赦しない、ナチスのポーランド侵攻とユダヤ人虐殺を暗に容認したカトリック教会にも戦う神父がいたことは意外である。夫と子供を置いて、ロッセリーニを慕いハリウッドからきたイングリッド・バーグマンとのスキャンダルが有名になり巨匠の実像が伝えられないのは残念である。

 ポーランドは最初にドイツ軍に侵攻され、長い地下組織の抵抗をする。この国を代表する監督アンジェイ・ワイダの抵抗映画三部作「世代」(55年)、「地下水道」(57年)あまりにも悲しい「抵抗の詩(うた)」(69年)。ヨーロッパ諸国の人たちは自由と民主主義のため多くの血を流したから、誇りを持って戦争映画を作ることが出来る。侵略者と戦った経験がないないどころか、15年にわたってアジア諸国を侵略し続けた日本は、せめて「戦争の虚しさ、愚かさ」を映画によって訴え、戦争肯定や軍国主義復活を公然と唱える人たちに鉄鎚を下す使命が負わされている。

2009年8月25日 (火)

「戦争と映画」(4)敗戦直後の日本映画

秋の田のかりほの庵の苫(とま)をあらみわが衣手は露にぬれつつ  天智天皇

In the harvest field/gaps in the rough-laid thatch/of my makeshift hut/let the dewdrops in,/but it is not only dew/that wets my sleeves/through this long night alone.

 朝晩の涼しさが駆け足でやってきている。不作などが無い限り、猛暑日が少ないのは嬉しい。小倉百人一首には秋の歌が多い、これは100首の第1首、法然や親鸞が飢えと貧困に苦しむ民衆の救いに命をかけて仏教界の革新に挑んでいた頃、上流社会の皇族・貴族・宗教者たちは「恋の歌」にうつつを抜かしていた格差社会は程度の差はあっても今も続いている。この世に格差のない社会が実現するのはいつのことだろう、来ないかも知れない。

 不思議なことに敗戦直後の数年間、日本社会にはさほど格差が無かったように思える。農地改革で地主は無くなり、小作農は自作農?となり、財閥解体、華族(貴族)は平民とされ特権を奪われた。国民みんなが共通に飢えていた、その日の食事のことだけを考えて生きていた。戦時中の連帯感とは違う連帯意識があり、助け合いながら生きていた。学校でも教材は不足し、同じような衣服、履物も下駄で靴を履いている者はいなかった。田舎にいたせいか雨の日は裸足で馬糞を踏みながら行った。蓑笠姿でやって来る者もいた。運動会で運動靴を履いたのは敗戦後6.7年だった。みんな貧しかったが新しい日本は自分たちが作るのだと希望にあふれていた「赤いリンゴ」が大流行したのもその頃だった。

 夜は電力不足でラジオも聞けない、ローソクやランプの灯りで手当たりしだい本を読んだ、さすがに蛍や雪明かりで読書した経験はない。敗戦直前閉鎖されていた映画館がぼつぼつ復活し、見に行くのが楽しみだったが、途中で停電してすごすごと帰ったこともある。

 敗戦直後(5.6年)日本中に「民主主義」という言葉が氾濫した、昨日までの軍国主義者が一夜にして民主主義者になった。学校の教科書は大部分塗りつぶされ、授業を受けるよりその作業に時間を費やすことが多かった。軍歌など歌おうものならこっぴどく叱られたが、男の子の遊びは「兵隊ごっこ」が主流だった。見事な変身が出来ず、教師を辞めた人もいたと後に聞いた、「氷点」で作家になった三浦綾子さんもその一人だった。

 映画は文芸ものが多くなった、戦争映画は無理としても時代劇を見たかったが占領軍の指令でチャンバラが禁止されたため「羅生門」(1950年)のような子供には面白くない作品が細々と作られていた。51年吉田茂首相の時「サンフランシスコ平和条約」が締結され米国の占領体制が終わり、3年後、黒澤明の「7人の侍」が大ヒットするが、作品もさることながら本格的チャンバラ映画に飢えていた状況もあったと思う。

 戦勝国米国は堂々と戦争映画の製作ができるが、大義名分のない侵略戦争をして敗れた日本は戦争映画は作れないが、反戦・非戦映画には佳作が多い。「少年期」(51年木下恵介)「原爆の子」(52年新藤兼人)「真空地帯」(52年山本薩夫)「風にそよぐ葦」(51年石川達三原作・春原(すのはら)政久監督)「きけわだつみの声・日本戦没学生の手記」(50年関川秀雄)「ビルマの竪琴」(56年市川崑)「ひめゆりの塔」(53年今井正)などが私を軍国主義の呪縛から解放してくれた。懐かしく貴重な作品である、感謝している。

 

2009年8月21日 (金)

自民党は「お笑い劇場」で積極攻勢、勝利を目指せ!

        七月や まづ粟の穂に 秋の風     許六(きょろく)

The Seventh Month; First to the ears of millet,

           The wind of august.

 許六、きょりくとも言う、は明暦2(1656)~正徳5(1715)江戸前・中期の俳人、彦根藩士、初め貞門のちに芭蕉に師事、画技に優れ、芭蕉から絵の師と仰がれた。蕉門十哲の一人。旧暦七月は現在の八月と重なる年もあるから今頃と考えても良いだろう。戦中・戦後の極端な米不足の時、米飯は「銀メシ」と呼ばれ滅多に食べられなかった。薩摩芋や南瓜を代用食として食べさせられた、関東以北では貧しい人たちは昔から粟やヒエを主食にしていたようだ。

 暦の上では初秋、秋の風は何故か寂しさ、侘びしさ、時には悲しさを誘う。「かなしさや釣の糸吹く秋の風」(蕪村)、短歌でも「・・・秋ぞ淋しき」フランスの詩人ヴェルレーヌは「落葉」で「秋の日のヴィオロンのためいきの身にしみてひたぶるにうら悲し」(上田敏訳)シャンソンの名曲「枯葉」も陽気な歌ではない。洋の東西を問わず、秋風は哀愁を募らせる。

 現在、展開中の衆議院選挙で自民党は秋風の悲哀と台風並みの逆風を感じて弱気になっているようだ。麻生首相は低姿勢になって、失政や失言、放言を詫びることで逆風を避けようとし、涙を流して土下座せんばかりで哀願調になっている人もいる。お涙頂戴の演出に騙される有権者は少ない。但し、前回同様、劇場型選挙に踊らされる主体性のない有権者は少なからずいる。新手の劇場型選挙を懲りずにやれば形勢を逆転して前回ほどはないだろうが勝利も夢ではない。人を食ったような誹風の一茶は、逞しく秋風を茶化す「淋しさに飯を食ふなり秋の風」この精神で逆風を追い風にすれば前途に光明が見える

 人間は笑いを求める、笑は救いになる、笑っている者は笑わせている人(演者)を決して憎まない、それどころか親近感を持つ。現代人の多くは喜劇を求めている。このことを熟知して今回の劇場型選挙は喜劇風にすれば多くの人の心を掴むことが出来る。以下は思いついたままの私案である。

 演題は適当で良い。幕開けに小泉元首相が登場。プレスリーに扮して、ギター演奏、できれば2.3曲歌う。ブッシュ前大統領の前でしたように、観客に徹底的に媚びれば大受け間違いない。さらに「人生いろいろ人間いろいろ」を島倉千代子ばりに熱唱して、有権者の固定観念を打ち破り、多様性と柔軟性をアピールする。

 次に安倍元首相、観客の空気を気にせず持論を述べる。得意の片仮名語を多用すれば観客の目は尊敬の眼差しに変わる。最後に愛国心を説き、全員で「君が代」を斉唱して、感動の高まりの中で退場。

 福田前首相は何も言わずに数分間、観客と対峙する、喜劇の場合、沈黙が爆笑を誘うことがある、退場前に「私は物事を客観的に見ることができます、皆様も私に倣って現状を冷静に客観的に見て判断してください」と有権者に主体性確立を呼びかける。間違っても「私はあなた(方)とは違うんです」と言わないこと。

 真打ちの麻生首相登場前、会場の雰囲気を盛り上げるため、中川元財務大臣が風邪薬を飲んで登場、酩酊調でスピーチをする、内容が何であっても観客は大喜びをする。次いで、赤城元農水大臣が、顔中に絆創膏を貼って登場、その理由は全く言わないで政見演説をする。満身創痍の自民党の現状を象徴した姿に、観客は同情の念を強くする。

 最後に麻生首相が登場、彼を見ただけで観客は熱狂し、他党支持者も飾らない彼の人間性に惹かれ始める。「生(なま)の私を初めて見た人、手を上げて」冒頭の第一声を聞いた観客は全員、感動して手を上げる、中には感極まって両手を上げる人もいるだろう。劇場の雰囲気が頂点に達した時、得意の漫画文化論で「アニメの殿堂」の必要性を納得させ、最後に持前のサーヴィス精神を発揮して、在任中の「漢字読み違い」を披露する。オドオドとしてはいけない、自信を持って述べる。読み間違いは誰でもする、目くじらを立てて取り上げることではない、大事なことは自分こそ、ブレナイ、信念に徹した理想的政治家であることを観客全員に心底理解させる姿勢を見せることである。

 以上の私案を私は真面目に提言する。自民党の現状打破に繋がると信じている。自民党関係者の心ある人が真剣に考慮されることを希求(ききゅう)しています。結果についての責任は一切負い兼ねることを念のため申し上げます。

 

2009年8月18日 (火)

「戦争と映画」(3)大戦下の米国映画

        蚊遣火の 煙の末に 鳴く蚊かな    白雄(しらお)

Just outside the smoke Of the smudge,mosquitkes are humming.

 白雄は元文3(1738)~寛政3(1791)年、江戸中期の俳人、江戸深川生まれ、約3000人の門人に指導、句風は繊細で格調が高い、編著の句集に「かざりなし」などがある。「子規(ほととぎす)なくや夜明の海がなる」は現神奈川県大磯での作。

 最近はスプレイ式の蚊やゴキブリの駆除法が一般的であるが、以前はポンプ式のものがあった。長い間用いられたのは「蚊取り線香」で得に言えぬ風情があった。原料になる除虫菊は淡路島に多く、全国生産の多くを占めていた。火を用いるので最近は目にしないのが淋しい。

 今日は衆議院選挙の公示日、戦後初めての政権交代を主権者の手で果たすことが出来るのか30日の投開票まで期待と不安の緊迫した日々が続く。炎天下の選挙戦107年ぶりとのこと大変だろう。甲子園球場ではもう一つの「炎天下の戦い」が繰り広げられている、70年ぶり出場の兵庫県代表、関西学院高校は昨日惜敗した。近畿6県の代表校の5校、大阪のPL学園、京都の龍谷平安高校、奈良の天理高校、和歌山の智弁学園、いずれも宗教立の学校であるのも珍しい。勝ち残っている智弁学園、PL学園の健闘を願っている。

 敗戦後、何人もの元兵士から「開戦直後、日本軍優勢の時でも米国には勝てないと思っ、物量が全く違う、飛行場を爆撃して使用不能の状態にした筈が、1ヶ月後には完全に修復され、飛行機も揃っている。日本軍の場合、飛行場修復には3カ月以上、飛行機Ⅰ機の補給は2~3週間以上はかかった」と聞かされた。

 太平洋戦争下、日米の映画制作を見るとその違いに驚く、日中戦争の激化で1938年から戦争映画がほとんどになる日本に比べて、米国では戦争映画は皆無に近い。日米戦争では43年にジョン・フォードの「真珠湾攻撃」が作られているくらいか?西部劇では「駅馬車」(39)「怒りの葡萄」(40)「嵐ヶ丘」(39)「市民ケーン」(41)「カサブランカ」(42)「心の旅路」(42)などの名作、さらに大作「風と共に去りぬ」(39)がある。他にディズニー作品「打撃王」(42)などの娯楽作品が中心だった。

 ヨーロッパではドイツと交戦中、日本とも一触即発の状況下で米国は多様な名作を数多く制作した。資材不足(特にフィルム)と若い男優不足で戦意高揚映画を細々と作らなければならなかった日本、圧倒的な物量の相違は映画界でも見られる。何よりも米国の余裕が伺える。ただ、「ヨーク軍曹」(41)とチャップリンの「独裁者」(40)は、米国民に戦争協力を呼びかける作品ではと思わされる。

2009年8月14日 (金)

クリスチャンの戦争体験

戦争が 廊下の奥に 立っていた(1935年)     渡辺白泉(はくせん)

 2000句以上の近世(江戸時代)明治の俳句を英訳しているプライス氏の力作には、当然、日中戦争以後のものはない。日本における反戦俳句の筆頭は白泉(1913~1969)だろう。数年前から彼の句集を探しているが、すべて絶版で入手できない。古書店巡りの好きな方、協力して頂けないでしょうか。彼は1940年「京大俳句事件」で逮捕され、敗戦直前(44年)水兵として応召され(横須賀兵団)その間も「玉音を理解せし者前に出よ」などの戦争批判句を残している。

 1925年成立した「治安維持法」は共産党弾圧を目的にしたものだったが、以後、全ての反戦思想弾圧に適用され、表だって戦争批判ができなくなる。宗教界も例外ではない、特に欧米と深い関係があるキリスト教は警戒される。多くの牧師が警察に呼ばれ「天皇とキリスト教の神はどちらが偉いか?」と必ず聞かれたそうだ。どのように答えたかを明白に教えてくれた戦中牧師は私の周辺にはいなかった。投獄された人が居ないことから、上手いことを言い逃れをしたのだろう。もし私がその時代、牧師をしていたら同じようにしただろう。

 多くの教会の礼拝に一目でそれと分かる私服警察が出席して、熱心にメモをとっていたらしい。1920年以後、全ての学校に天皇の写真(御真影)と「教育勅語の謄本」を収めた「奉安殿」が設置され、登下校の際は最敬礼することが義務付けられるが、教会でも同じような「東方遥拝」が強制されていた。怪しい人物が来てない時、それをしなかった牧師が呼び出されてひどい目にあったという話も聞いた。信徒か家族の中に密告者がいたのだろう。

 1939年成立した「宗教団体法」の趣旨に協力して、日本の教会の各教派は統合を話し合い、41年プロテスタント全教派は「日本基督教団」を結成する。成立時の文書を読むと第一に内部事情を強調しているが、戦争遂行にクリスチャンとして協力することも謳っている。戦後、全共闘運動の高まりの中で、戦時中の教会の戦争責任を追及する声が教団や諸教派で起こった、教団は「戦争責任告白」を発表、私が所属していたバプテスト連盟でも年次総会で戦時中牧師をしていた人を鋭く追及する場面が見られた。「大学解体」のスローガンが「教会解体」として持ち込まれた。新しいものを再構築するための解体には同意できるが、解体を目的化した運動には展望が無い、全共闘運動と同じように、教会解体運動も破綻した。

 将来牧師になる人を養成する神学校(大学の神学部、神学科、各種学校の総称)に入学したのは敗戦後11年、20歳だったが18歳から50歳まで、多様な人たちが50人ほどいた。、陸軍士官学校出身の人や、一兵卒として従軍した人が10数人いた。戦時中クリスチャンだった人はいなかったので、信仰的葛藤はなかっただろうが、誰も戦争については語らなかった、夜中にうなされたり、泣いたり、絶叫したりする人が何人かいた。戦争の後遺症を背負って生きている人たちだった。

 「戦争中は内地の高射砲隊にいて7機撃墜したが罪悪感はない」と言い切るクリスチャン、「日本刀で中国人を止むを得ず切った」と涙ながらに告白したクリスチャン、これまでいろんなクリスチャンの話を聞いた。。教師の中には高齢徴兵されて毎日、理由もなく顔が腫れるほど殴られたり、数時間、全裸で直立させられたと悔しそうに言う人もいた。野間宏の「真空地帯」にある戦争末期の天皇の軍隊の腐敗した状況は虚構ではない。戦場に駆り出された兵士は責められない、人間を道具としてしか考えなかった政治家、軍の中枢にいた者の責任追及を厳しくすることが恒久平和の礎になる。

2009年8月12日 (水)

麻生首相のサーヴィス精神・漢字の読み違い

      罷り出でたるは この藪の 蟇(がま)にて候    一茶

       “I make My Appearance,I the Toad,

           Emerge from My thicket.”

 俳句ではないが「句集」に入っていおり、一茶らしい「可笑しさ」があるので取り上げた。「蛙の面に小便」という言葉がある、良く言えば、何を言われても動じない人ではあるが、逆に「厚顔無恥」という意味も含まれている。麻生首相の言動を見ていると何故かこの言葉が浮かぶ。一国の首相を蛙にするのは互いに惨めであるから、ガマにした、我慢してください。つまらないダジャレを特に緊張した場面で言いたくなるのが九州人の性癖、これが災いして白い目で見られたり、感情を害させたことが何度もある、苦い過去に苛まれる今日この頃。

 麻生首相のサーヴィス精神について何度か書いた、この考えは間違ってないと思っている。敗戦後約60年間続いた自民党政権を終わらせる最後の首相にふさわしい人だと思う。そうなってもらえれば、まともな議会制民主主義を渇望してきた主体的主権者には大サーヴィス者として、彼の名前は後世に残るだろう。傲岸不遜で国民を小馬鹿にした小泉元首相に愛すべき点は全くないが、何故か人間麻生太郎は心から憎めない愛すべき人である。

 9日の「長崎原爆忌」でマタマタやってしまった「傷痕(きずあと)」を「しょうせき」と言った。この厳粛な儀式だけはサーヴィス精神は禁物だと凡人は考えるが、それでもやる所が彼の非凡な精神構造。彼の偉大?さは聞く者に疑念を持たせない、確信に満ちている、一瞬、「しょうせき」という読み方もあるのだと思ってしまった。後で辞書で確かめたが無かったので、ひとりで安心した。翌日の新聞には触れられていなかった、気付かなかったのか、毎度のことで書く気にもなれなかったかも知れない。

 言葉の読み違いや使用の間違いをしない人はいない、麻生首相を責めてばかりはおれない、しゃべることを生業にした私も随分同じことをしてきた。後で気づいて一人赤面したことが度々あった。サーヴィス精神から麻生首相のように故意に間違える度胸は無かった、この点彼のスケイルの大きさには感服するばかりである。間もなく首相としての彼を見ることができなくなる、日本の民主政治のためにはそうあって欲しい、のは寂しい。自民党が仮に大敗しても「惜敗」と信じ込み、捲土重来(ちょうらい)を期して総裁の座を下りようとしないかも知れない。一人の人間、政治家としては愛すべき麻生太郎の致命的失敗は首相になったことだが、本人は気づいてないだろう。

2009年8月10日 (月)

「戦争と映画」(2)戦時下の日本映画

           客僧の 二階下りきる 野分かな     蕪村

A visitig priest Comes down from upstairs;The autumn tempest.

 台風の影響で2日続きの豪雨、兵庫県でも被害が出始めている。訳者は家を訪ねてきた僧が雨風の激しさに驚いて2階から慌てて下りてきたと考えたようだが、蕪村が泊まっていた旅館の出来事に思われる、物に動じない修行を積んだ筈の僧が慌てるさまを冷ややかに、ユーモラスに見る人の句と考えるのは考え過ぎだろうか。

 敗戦の日まで「連戦連勝」の報道を流し続けた日本軍部(大本営)の発表を少国民は信じきっていた、米軍の日本上陸を誘い「本土決戦」で勝利して決着をつける作戦を微塵も疑っていなかった。その時には少年たちも竹槍を持って参戦する、その日が来るのを心躍らせて待っていた。多くの人が日本の敗戦を覚悟し、特攻隊員や戦没学徒の残された日記等を読むと、日本の勝利を信じていた人はいなかったことを敗戦後初めて知った。何も知らない小学生たちは、登下校には「もしも日本が負けたなら、電信柱に花が咲き、ブンブン豚の子空を飛ぶ」と大声で歌ったものだ。日本の敗戦などあり得ないと信じて疑わなかった。

 日本の勝利を信じる最大の根拠は「万世一系の天皇が統治する神国日本は、最後には勝利の神風が吹くから敗北は無い」と信じ込まされていたからです。敗戦前6か月「かくて神風は吹く」(1944年制作)という映画しか上映されなくなり、繰り返し見せられた。これが最後の軍国主義高揚映画だったようだ。

 今思うと、開戦直後の「マレー沖海戦」で英国艦隊に勝利した記録映画、劇映画は作られたが日本の敗戦を決定的にした「ミッドウェイ海戦」以後の映画は無い。戦時下の日本映画は1937年夏以降、臨戦態勢に入り、巻頭に「挙国一致」「銃後を護れ」などのスローガンを入れることが義務付けられている。それでもメロドラマの「愛染かつら」やエノケンの喜劇もの、文芸作品が主流である。

 軍国主義高揚の戦争映画が目立ち始めるのは、真珠湾奇襲攻撃の前年からであるが、戦場の兵士を人間的に描いた「戦ふ兵隊」(39年亀井文夫監督)「土と兵隊」などの名作も作られている。「戦ふ兵隊」は間もなく上映禁止にされる。敗戦前の2年間、極度の物資不足もあり映画の製作数は激減し、ほとんどが戦争映画、団体観賞で見せられた作品ばかり。敗戦の前年、黒澤明が「姿三四郎」で監督デビューしたのが目を引くが、少年たちには無縁の映画ではあった。

 見る映画、読む雑誌、聞くニュース全てが軍国主義一色、それも日本の勝利を疑わせないものばかり、子供たちが軍国主義者の卵になるのは当然。敗戦の日、虚脱状態になって涙も出なかった。戦中教育を受けた者の多くが社会不信、人間不信を伴った虚無主義に陥るのも当然。少なくも私の中には深い虚無主義が巣食っていた。高校時代、イエスの福音に出会うまで、絶望的な虚無主義の中で生きることを余儀なくされた。 

2009年8月 7日 (金)

64回「広島原爆忌」戦争は最悪犯罪、許せない

        新年の 柩(ひつぎ)にあひぬ 夜中頃    子規

       I met a coffin,At midnight,In the New Year.

 毎日、死と闘いながら生きた子規は華やかな正月に、ひっそりと葬儀する光景に死の非情さを感じたのだろう。1931年日本軍は「満州事変」を起こし、以後14年間にわたる「日中戦争」さらに1940年には太平洋戦争(戦争好きな連中は今でも大東亜戦争と言う)へと突き進む。櫻井よしこや多母神、皇国史観を捨てきれない前世紀の遺物とも言うべき歴史家たちは「大東亜戦争は米国の謀略」を繰り返している。彼らの論理の致命的欠陥は太平洋戦争が中国侵略戦争の延長線上にあることを知らない、触れようとしないことにある。

 昨日は64年前、広島に原爆が投下され、一瞬にして10万人以上の生命が失われた日、投下直後の惨状を描いた「原爆地獄図」を何度も見たが5分間以上見ることは出来なかった。「自分はあの中の一人にならなくて良かった」と思う自分が悲しく、自己嫌悪に苛(さいな)まれる。大東亜戦争肯定論者はこの絵をじっくり見て、自分がこのようになっても自説に拘ることが出来るのか理屈でなく自身の人間性を問うて欲しい。

 日中・太平洋戦争で300万人以上の日本人が犠牲になった、単純計算をすれば1日に約600人が尊い生命を失くしたことになる。目出度い正月3が日にも1800人が死に、数倍の人たちが愛する人を失くして悲嘆に暮れていたことになる。子規が詠んだ「新年の柩」は太平洋戦争中の日本では珍しいことではなかった。先の大戦中4年間、正月に凧上げや独楽遊びをした記憶が無い、田舎に居たため餅は食べたが餡子餅は砂糖不足で「塩餡子」だった。甘いものが食べられない4年間だった・・・・・・・

 たった今、東洋大姫路高校ソフトボール部、全国総体準決勝で惜敗の長い報告が現地奈良から入った。今年は全国制覇の吉報が聞けると確信していたので落胆。日本一の夢が叶えばいつ死んでもと密かに考えていたが、これでは死ねない。思考停止になって本文続きが書けなくなった、中途半端で終わって申し訳なし。

2009年8月 4日 (火)

戦争と映画(1)太平洋戦争と日本映画

        或る人の 平家びいきや 夕涼み     子規

Cooling in the evening,A certain man favourating the Heike.

 一昔前までは、夏の日が沈んだ後、家の前に床几(しょうぎ)など出して近所の人達が語り合ったものです。縁台将棋が盛んだったのもその頃です。子規の時代には源平合戦にも話が弾んだようです、源氏ファンがほとんどの中で平氏びいきが孤軍奮闘する姿が印象に残ったのでしょう。子供たちは大人の話を聞きながら多くのことを学びました。網干に来て、縁台で夕涼みをしている人たちを見て、幼いころを思い出しました。

 8月15日は「敗戦の日」戦争の犯罪性、悲惨さは常に考えるべきですが、マスコミの風潮に迎合して今月は映画を絡(から)めて戦争について考えてみます。

 小学3年まで観た映画で記憶に残っているのは全部「戦争映画」です。その殆どは1か月に1回くらい団体観賞で半ば強制的に見せられる「戦意高揚」映画でした。戦局が厳しくなり、敗色が濃くなる敗戦前になると空襲の危険や、見せるべき映画が無くなったのか団体観賞は無くなった。

 軍国少年として育てられた私は、戦争は悪と知りながら「懐かしい映画」はその種のものしかなく、懐かしい歌は軍歌しかないのが正直なところです。そういうこともあって、数年前から戦時中制作された映画のヴィデオやDVDをいくつか入手して、時折観ています。微かに覚えていた作品、当時、名作と言われた「燃ゆる大空」「加藤隼戦闘隊」などのストーリやっと理解できました。

 日本の「戦意高揚映画」は1940年12月、真珠湾奇襲によって始まった太平洋戦争開戦前か、後の2年に制作された作品ばかりだということに気付いた。開戦後1年半、1942年6月「ミッドウエイの海戦」で日本軍は海軍力の8割、多くの戦闘機と優秀なパイロットを失い、敗戦は加速化する。戦時中、国民はこの海戦は大勝利だと信じ込まされた。1944年後半、団体観賞では3回ほど「かくて神風は吹く」という悲壮な映画を3回ほど見せられた、今思えば日本には映画制作の余力も残されてなかったのだろう。

 昭和の日本映画を代表する神秘的女優原節子も戦時映画に数多く出演している、彼女なりに使命感があったのか痛ましく思う、戦後10年ほどで突如引退して以後、全く姿を見せない、まだ生きているのだろうか、彼女もまた戦争の犠牲者の一人ではある。戦時中の映画に主演した人たちで存命している人はいない。少年時代、熱狂して観た映画を名作とも言えず、その時代を「古き良き時代」とも言えない、言ってはならないことよく分かっているが、私には懐かしく思い出せる時代と映画であることを消し去ることもできない歴史的事実である。