2012年1月27日 (金)

「太宰治と信仰」Aさんの批判的感想(2)万能人信仰の破綻

     瓶わるる 夜の氷の ねざめかな    芭蕉

         I woke up suddenly,

      With the ice of night

        When the water-pot butst.

 今冬いちばんの寒さが続いている、氷点下1度で極寒を感じるが、北海道では氷点下30度の地があると報じられている、想像もつかない。寒冷地帯は冬の備えが万全だから、室内は暖かい工夫がしているだろうが、そうでない所は「隙間風」がこたえる。ガラスがない時代は大変だっただろう。枕元の水差しか台所の瓶か分からないが、中の液体が凍って割れることは有り得ただろう、冬の夜の寒さが伝わる句である。芭蕉にも分かりやすい句がある。

 Aさんのこと 私は万能人はいないと信じている、そのことを教えてくれたのがAさんだった、感謝している。人間誰でもある分野に優れた能力を持っている、その能力を見出し、伸ばす手助けしてくれる人と出会える人は幸いである。その意味で、両親や教師の存在は大きい。生徒が持っている能力を見出し、深化・向上に寄与できる教員は良い教師と言える。そのためには「体育はいいが、それよりも英語かできるようになってもらいたい」など能力差別をしないことである。全教科できる生徒は居ないはずであり、いると思っているのは大きな過ちである、そういう生徒は学校のテストに強い、単なる小賢しい人にしか成れない。考えるよりも点取り技術に長けた生徒を「良い生徒」としてきた教育が現在日本の政治的、社会的、道徳的荒廃をもたらしたと思える。

 神学校時代、一時期、Aさんを「万能人」と思い込んでいた。自分は読書人だと半ば自惚れていたが、彼の読書量には圧倒された、日本はもとより欧米文学に関しては足元にも及ばないことを知らされた。彼は2学年だったが、神学科の講義にも顔を出していた、勿論、単位にはならないが知識欲旺盛だったのだろう。「キリスト教教理史」を受講し始めた時、図書室で、著名な英国神学者の分厚い著書を手にして「あの先生のネタ本はこれですよ、清水さんの手伝いをしましょう、訳しますからノートしてください」と言って片隅の机に向かい合って、英書片手に30ページほど1時間かけて和訳してくれた、いわゆる同時通訳である。「これで今学期はいけます」言葉通りだった、その後の授業は実に楽だった、出席率は良くなかったが良い評価を頂いた。彼の語学力に驚嘆した。

 彼は、オルガンが上手だった、教会の聖歌隊を指導していた、土曜日の練習にやや音痴の私を強引に誘って参加させた。苦痛だったが、キュートな女子大生がいて、練習後Aさんと彼女を寮まで送っていくのが楽しみで熱心に参加した。彼は私が彼女に好意を抱いていることを感づいていたようだがからかわれることはなかった、私としてはやや不満だった。

 神学寮の空き地でほとんど毎日ソフトボールを楽しんでいた、私がヒーローになる時だった、「清水君は牧師になるより、プロ野球選手になるべきだった」とみんなからオダテラレテ得意満面だった。Aさんは見ているだけだった、ある日、嫌がる彼を誰かが強引に引きずり込んだ、長身であるだけに、その下手糞ぶりは目立った、私は呆れるより可哀そうになった。その時「世の中に万能人はいない」ことを悟った、同時に安心した、ますます彼が好きになった。

2012年1月24日 (火)

「太宰治と信仰」神学校時代の畏友Aさんの批判的感想(1)

   冬の夜や 針失うて 恐ろしき      梅室(ばいしつ)

       A winter evening;

     The needle has disappeared,-

      How dreadful!

 梅室(明和6・1769~嘉永5・1852年)は初登場、加賀の金沢の人で刀研(かたなとぎ)師、晩年は京都で過ごし、天保三大家の一人と言われる。「梅室句集」などがある。彼が亡くなった翌年、ペリーが浦賀に来て開国を迫る、大揺れに揺れた幕府は67年に「大政奉還」68年には「鳥羽・伏見の戦い」に敗れ、明治新政府が誕生する。

 彼の句を取り上げたのはブライス氏は、針仕事の手を休めるため針山に刺した針が無くなった、魔物の仕業と思い恐ろしくなった女性の心理を詠んだ句としている、いかにもヨーロッパ人の発想である。江戸時代、夜の照明費用は高価なため、庶民は日が暮れると寝てしまう。ローソクは高過ぎて買えない、魚油か菜種油の灯火が精いっぱい、少しばかり裕福な人は行燈(あんどん)を置いていただろう。いずれにしろ明るさは3~5W、暗すぎて無くした針を探すのは大変、そのままにして置くのは怖い、その恐怖心を詠んだ句と私は思う。もっとも解釈は根拠と説得性があれば自在である、絶対化してはならないが、「名歌名句辞典」(三省堂)も私と同じである、この書では無くした針を「潜んでいる針」としているのが面白い。

 他人の思想・信仰・考えを自分のそれとは違うと言ってバッサリ切り捨てるのは下の下、こういう類の人の意見を聴くことはない、適当にあしらえば良い。TVなどにこの類の人たちが、ゲスト、コメンテイタ、さらに怖いのは専門家と称して顔を出し、尤もらしいことを言っている、感情むき出しで他者否定する人が多い、惑わされてはならない。ごく少数だが、謙虚で実践的な人もいる尊重しなければならない。

 今月5日から4回に亘って、25歳の時書いた「太宰治私考」を臆面もなく記した。自身の信仰の軌跡を検証するためであったが、書き終えた後、神学校時代の畏友Aさんから長文の批判的感想を頂いた。的を得たご意見で、貴重な批判として今後の糧にすることにした。全文を紹介したいが、長過ぎるのと彼のブライヴァシに関することもあるので、「原罪」について(これも長い)簡単にまとめることにした。

 Aさんのこと 彼とは神学校を卒業して以来、一度も会ってないし、音信も無かった、実に52年ぶりの再会である。今回の2通の文書も郵送であるが、差出人の名前だけで、住所等は一切無い、ただ「この文書の取り扱いはあなたにお任せします」とあったので、私なりの配慮をして、私のブログに投稿することにした。彼は卒業後、他教派の教会に出席し、私のブログも初めから読んでいるとのこと、光栄であり、嬉しい。

 彼との出会いは、私が神学校(当時は西南学院大学文学部神学科)3学年に編入した時に始まった。彼は2学年で私より6歳年長だった。私が紹介された教会に彼も行っていたので親密になっていった。非常に寡黙な人で、私同様滅多に声を出して笑わなかった、もっとも私は幼稚で人を笑わせるのが大好きだったので、顰蹙(ひんしゅく)を買っているのも知らずに矢鱈(やたら)と冗談を連発し、「面白い人」と言われるのが賛辞だと信じていた。彼もそれを楽しんでいたと思う。「Aさんが明るくなった」と教会でも神学寮でもしばしば耳にした。

 Aさんは過去のことは全く語らなかったが、どこにも情報通がいる、神学校にも何人か居た、彼らによるとAさんは、T大受験に失敗し、W大の英文科に2年間在籍して退学、米軍キャンプで3,4年事務職をして、この大学の1学年に入ったとのこと。本人に確かめることはしなかったが一度だけ「何故、3学年に編入しなかったのですか」と聞いたことがある。「何もかも一から始めたかったからです」不快そうに答えられたので以後、彼の過去に触れることは避けた。

 長くなりましたのでAさんのこと次回にします

2012年1月20日 (金)

「続網干より残日録」(14)いろいろあった1週間

         山寺の 硯(すずり)に早し 初氷       蕪村

           In the ink-stone Of the mountain temple,

               The first ice is early.

 昨日は1か月ぶりの雨、氷雨でなく初春の雨の風情。今年の冬、一度も氷を見てない、豪雪に苦しんでいる人たちには申し訳ない気持ち。大分県の寒冷地帯・森町と日田市に居た時、雪もよく降ったが、朝起きると洗面所のタオルが凍っていた、室内に取り込んでいた洗濯物も同じだった。硯に残した水が氷る寒さ理解できる。「氷る燈(ひ)の油うかがふ鼠かな」室内の寒さを詠んだ同じ作者の句、同工異曲の感はするが、気持ちは伝わる。

 この1週間、個人的なことも含めていろいろありました。

 メガネ変えました 20年ほど使っていた遠近両用メガネ、授業をするのに重宝しましたが、その必要もなくなったので老眼専用に変えました、老眼用は2つほどありますが役立たず、已む無く専ら両用メガネ使っていました、変えてビックリ手術したように本や新聞がよく読めるようになりました、パソコン用のも変えました、これも同様、疲れません、早くしておけばと悔やんでいます。

 センター試験 10年前までは、年末・年始もなく1週間ほど「センター試験対策補習」をしていました、準備が大変でした。解答は全て4択、幸運も味方します。日常米語会話を目的にしている人には時間と労力の無駄です。翌日の新聞で本番の試験問題をドキドキしながら見ていたこと懐かしい思い出です。この10年間、全く見ていません。本来は国公立大学の1次試験資料に使われていましたが、現在、この試験の得点だけで入学させている大学が少なくないそうです。

 芥川賞 第146回芥川賞を受賞した田中真弥さんの一言が話題になっている、20歳から19年間小説を書き続けた執念には敬服する。創設者菊地寛先生の意思とかけ離れてきているこの賞に30年以上無関心だったが、彼の発言は面白かった、選考委員の一人、石原慎太郎氏が意外な文学論を披歴して、委員をやめたのがさらに面白かった。「太陽の季節」にいかほどの文学性があるのか問いたいものである。

 私のブログと新聞 昨日の朝日新聞「科学欄」に「将棋ソフト」について大きく取り上げていた。17日のブログで書いたばかりなので驚いたが、偶然の一致だろう。ただ、この7年間、「◯◯新聞のコラムにあなたのブログと同じようなことが書いていましたよ」何度か言われたことがある、私自身も似たようなコラムを読んで「あれっ!」と思ったことがある、勿論、考え過ぎであり、偶然に過ぎない。私自身の名誉の為に一言します「他人の文章や考えを盗用・贋作したことは一度もありません、引用する場合は必ず出典・出所を記しています」くれぐれも誤解・曲解をされませんよう改めてお願いします。

 終わりにダルビッシュ投手がテキサス・レンジャースと6年間6000万ドルで入団契約しました。月給9000万円と平均的日本人である私はまずそんな計算してしまいました。ともあれ、頑張ってください、テキサスは南部バプテストの本拠地、州都ダラスはケネディ大統領が暗殺されたところです。

2012年1月17日 (火)

「続網干より残日録」(14)コンピュータ将棋

木枯(こがらし)の 果はありけり 海の音   言水(ごんすい)

         The winter blast  Has its final blast

            In the sound of the sea.

言水は慶安3・1650~享保7・1722年、江戸前・中期の人。奈良に生まれ、江戸に出る。芭蕉一門との交流はあったが、芭蕉(寛永21・1644~元禄7・1694年)と直接の交遊については不明。京都俳壇の重鎮となり、編著書を残している。「網干より・・・」には初登場。ブライス氏はブレイクやキーツの詩を引用してこの句の深みを説明している。

 17年前の朝5時46分「阪神・淡路大震災」に襲われた、地震に恐怖を感じたのは初めてであったこと、今でも鮮明に覚えている。6000人以上の方が亡くなった「神戸は安全」という神話が崩壊したが、1か月に100万人以上のヴォランティアが全国から駆け付け、日本人の隣人愛を改めて知らされたのがせめてもの救いだった。あの年生まれた人が間もなく高校3年生になる。「大災害経験の風化」が心配されているが、愛する人を亡くした方々は生涯、あの日を背負って生き続けると言われている。戦争・大災害などを決して風化させてはならない。人類が過ちを繰り返している最大の原因は、それらを風化させ、忘れてしまうからであろう。凄まじい木枯らしも海に飲み込まれるが、地球が在る限り海鳴りとして残される、自然は常に人間に警告を発し続けている、謙虚に聞かなければならない、自然と人間の関係を風化や忘却すると手痛い被害を蒙る、両者の関係は常に緊張状態でなければならない。

 年末、10年ぶりに姫路の西二階町商店街に行った。網干の商店街と同じで寂しくなってしまっている、敗戦直後、駅前からお城まで通称50メートル通りが作られたため、東二階町と分断されてしまい衰退の一途を辿っていたが、50年前には映画館が3つあり結構賑わってはいた。一角に「骨とう品店」があり、よく行ったものである、懐かしいので立ち寄った、昭和の大名人と言われた大山康晴直筆の署名入りの王将と刻まれた木彫りのお皿があったので買ってしまった、5000円だった、良い買い物をしたと満足している。「大山と羽生はどちらが強いか」とよく話題にされるが、「宮本武蔵と千葉周作はどちらが強いか」と言われるのと同じで、私には分からない。

 大山は落合監督と同じ「負けない名人」で棋風が地味なため、強いのに人気はそれほど無かった、私は彼のライヴァルだった升田幸三の熱烈なファンだったから、大山が好きになれなかった。先日、米長邦雄元名人がコンピュータ将棋ソフト(以下将棋ソフト)に敗れたことを知り、ショックを受けた。この一戦に限れば人工頭脳(科学)が人間の頭脳より優れているということになる。計算力や解析能力ではコンピュータが勝ることは否定しないが、思考力・洞察力(将棋では読み)は人間の方が優れていると信じている。米長氏は64歳で現役棋士ではないから敗れても、絶望はしてない。次回は現役の中堅棋士5人と対戦するそうだ、ソフトは1秒間に1800万手を読むそうだが、所詮は機械、プロ棋士には勝てない、将棋の読みは極めて人間的であり、柔軟性があるから次回は完敗するだろう。

2012年1月13日 (金)

「信仰閑話」(9)太宰治と信仰(4)

     君火をたけ よきもの見せん 雪丸(ゆきまろ)げ    芭蕉

           You light the fire,

       And I'll show you something nice,-

           A huge ball of snow.

今冬一番の寒さが続いている、北海道では氷点下29℃になった所もあると報じられている、信じられない。約45年の姫路生活で雪が積もったのは10数日、一度だけ、豪雪のため車で出勤できずバスで行ったことがある、生徒も教員もほとんど来ない、休業になり歩いて県道のバス停まで行った、約1キロの雪道を1時間ほど歩いた、長靴は全く役立たずだった、冷凍足になるのではと恐怖を感じた。寒冷地帯は冬中こんな日々が続くのかと思った。「どんなに寒くても猛暑の夏より冬のほうが良い」など言っていたら袋叩きされるだろうと猛省したが、のど元過ぎれば・・・で同じこと思うようになっている、嗚呼!

  雪丸げは積もった雪をころがして雪玉にする子供たちの遊び、大分県の寒冷地帯、日田市や森町に小学生時代居たので何回も経験している。戦中・敗戦直後だったので教室に暖房設備はなかった、戦中は「寒い」など言えば「戦地の兵隊さんを思え」と叱られたものである。雪の句でも芭蕉には品格?がある、一茶になると「真直ぐな小便穴や門の雪」になるのが愉快である。

           太宰治について

 キリストの福音、特にそれが徹頭徹尾「ゆるしの福音」であるだけに、(太宰でなくても)誰もが、その前に立たされる時に、戸惑いを覚えるものです。神の前に自己を投げ出さなければならないことをよく知りながら、それをすることがでくなかった人、太宰治はそういう人でした。もし彼が文学者でなかったならば、容易にキリストを信じることができたのではないでしょうか。彼は信仰を全面的な自己否定に終わらなければならないと考えたのではないでしょうか(意味不明、表現が回りくどい)。

 もし、そうであるならば、文学者として生きていくことは不可能になります。彼を自殺に追いやった要因の一つに、このことも見落としてはならないでしょう。

 確かに、信仰は自己否定に始まります、しかし、それは新しい自己を肯定する為の前段階であることを知らねばなりません。新しい自己とは、古い人間が知らなかった「自由」の中に生きる人間のことです。太宰の前に、このような新しい自由の中に生きていた文学者がいなかったことは、彼にとっても、日本の文学界にとっても大きな悲劇でありました。老人太宰治を想像するだけでも、胸がはずむ思いがします。しかし、もはやそれは夢でしかありません。

 太宰を乗り越えた文学者、すなわち、キリストの自由の中で生きる人、それを現在の文学界に求めるならば、椎名麟三こそ、その人であります。次回はかれについて共に考えてみたいと思います。

 4回にわたって25歳の時の太宰治私考を書き写しました、写しながら文体と内容のひどさに恥ずかしさを覚えて括弧をつけて書き直しました、全文書き換えるべきですが、最最小限に止めました、案の定、75歳の引退牧師から厳しい批判一号が寄せられました、次回からしばらく紹介します。

2012年1月10日 (火)

「信仰閑話」(8)太宰治と信仰(3)

          寒月や 石塔の影 松のかげ     子規

           Winter moonlight;

           The shadow of the stone pagoda,

              The shadow of the pine-tree.

 ブライス氏の英訳は全て上記のように3行です、行数節約のため、ほとんどを2~1行にしています、大文字で改行して鑑賞してください。同じ月でも夏は暑苦しく、冬は寒さを増し、ゆったりと見る人も少ないので寂しそうである。川も同じ、猛暑時は涼しさを感じないが、冬の川は澄み切っているだけに一入(ひとしお)寒さを感じる、自然は変わらないのに人間は勝手なものである。

                太宰治について

 「罪の支払う報酬は死である」(ローマ書6・23)彼は、まさしく罪の強大な魔力の犠牲者であった(ということができます)。罪に打ち勝つ為には、罪の力を無力化させるためには、キリスト-それも十字架上で罪つ罪と共に死に、復活によって罪に勝ち給うた-による以外(に方法が)にありません。(このことを私がここでいうまでもなくなく)このことは彼自身よく知っていました。数ある日本の文学者(の中)で、彼ほど聖書を熱読した人はそれほどいないでしょう。彼は聖書の中でキリストを知り、出会っています。

 日本の近代文学者の(かなり)多くが、一旦、クリスチャンとなりながら(例えば、島崎藤村、有島武郎)教会を去って行った事情をいろいろ説明することができるでしょうが、一言でいえば、彼らが信じたのはキリストではなく、西洋のキリスト教で(ありま)した。太宰は彼らとは違った縦度でキリストに接しました。(おそらく)彼の意識に中には、キリスト教が入る余地はなかったのではないでしょうか。(無かったと思います)。彼が聖書をどのように評価(読んだ)したか、次の一文でもはっきりしています。「聖書一巻によりて、日本の文学史は、かつてなき程の鮮明さを以て、はっきりと二分されている」(HUMAN LOST 昭和12年)」。またこうもいっています「・・・日本人は、西洋の哲学、科学を研究するよりさきに、まづ聖書一巻の研究をしなければならぬはずだったのだ・・・・」(パンドラの筐・昭和21年)。

 この(これら)二つの作品には10年のへだたりがありますが、彼の聖書に対する考えには、みじんの抗体もりません。むしろ、よりキリストに接近しているという感すらあります。これほど聖書を愛し、キリストを愛した彼が、何故、自らの生命を亡ぼさなければならなかったのか(自殺しなければ・・・)。それ(そのこと)を知るためには、彼がキリストをどのように愛していたのかということ(彼とキリストとの関わり)を考えなければなりません。

 結論から先に申しましょう、彼はキリストの福音を「和解の福音」(コリント第二書・2・20~21)として受け入れることができなかったのです。(彼は)キリストの中に「苦悩の人」を鋭く見出すことはできても、その苦しみが人間に喜びを与える為のものであるとは信じられなかったのです。彼の最後の大作(である)「人間失格」に次のような一文があります。「自分は神にさへ、おびえていました、神の愛は信じられず、神の罰だけを信じているのでした。信仰、それは、ただ神の笞(しもと)を受けるためにうなだれて審判の台に向かう事のような気がしているのでした。地獄は信ぜられても、天国の存在は、どうしても信ぜられなかったのです」

 長くなって申し訳ありません、次回で終わります、忍耐してお付き合い願います。

2012年1月 6日 (金)

「信仰閑話」(7)太宰治と信仰(2)

   正月の 子供になって 見たきかな    一茶

    Ah! to be  A child,-  On New Year's  Day!

 幼い子供を次々に亡くした一茶には、我が子との楽しい思い出はほとんど無かっただろう、この句が誰の子供の様子を見て詠まれたのか分からない、誰の子供であろうと、彼の子供に対する愛情は同じであることに一茶の人間性を感じる。先日、日課の揖保川沿いの散歩(自転車)中、河原で親子三人「凧揚げ」をしていた、久しぶりの正月光景、しばらく惚れていた、孫が居れば付きあえるかなと、有り得ないこと考えてしまった。正月の楽しい思い出のほとんどは自分が幼かったときと子供が幼かったとき、娘が凧揚げに熱中していたとき、8ミリ写真機で撮ったのがある、ヴィデオにしたので繰り返し観ている、若い時の妻が共演しているのも理由の一つ、音声が入ってないのが残念!

                       太宰治について

 彼ほど自己(自分)を厳しく責めた人を他に知りません、彼は自己の原罪を常に意識した人でした。「罪 誕生の時刻にあり・・・・・」(二十世紀旗手)。彼は単にホーズだけで罪を口にしているのでなく、全存在を賭して罪と戦ったのです。

 「すべての人は罪人(つみびと)である・・・・」(ローマ書3・23)この聖書の言葉を真面目に否定する人はおそらくいないでしょう。全ての人が自己の罪を認めているのです、ただ、それを人生において問題にすべきであるのに、しないで済ませようとする人が多いだけです。このような、罪と正面から対決することを避け、何か他のものを追求することによって、それを忘れようとする人たちを、あえて私は不誠実な人であるというのです。(私たちの)人生において対決すべきものと対決しないで済ませることは容易(なことであります)です、しかし、そこには真の人生の意味が存在しないのではないでしょうか(しないように思えます)。

 このような意味で(どんな意味で?)、太宰が誠実な人であったというのです。彼は自己の(自分が)罪人であることを認めました、そこから彼の苦悩がはじまるのです。彼は苦悩をおそれませんでした、誠実にそれと戦いました。彼が自殺したことによって、世人は彼を弱者といいます。確かに、自殺は敗北者の行為です(本当にそう思いますか?)。しかし、罪と対決できる人に弱者はいません、それでは何故誠実で勇気のある人が、このような敗北者のとる道を選ばなければならなかったのでしょうか。

2012年1月 5日 (木)

「信仰閑話」(6)太宰治と信仰(1)

目出度さも 中位(ちゅうぐらい)なり おらが春    一茶

      A time of congratulation,-

    But my spring Is about average.

 私の正月は一茶よりも、一休禅師の「元旦は冥土の旅への一里塚・・・・・」に近い心境です。前々回のブログ、先ほど電気屋さんに来てもらいましが、復元不可能とのこと、諦めました。

 昨年末、探し物していたら、50年前、神戸・明石・姫路3教会の牧師が勉強成果を発表する同人誌・「道」創刊号を発見しました、季刊誌ということで3号まで続いたと記憶していますが、2,3号は紛失したようです。ガリ版印刷です、驚いたのは表紙の題字と挿絵が菅原洸人(こうじん)さんです、当時、彼は神戸教会内に在った古い土蔵に住んで、映画の看板を描いていました。後に、「聖書と海」を題材にした大作を次々と描き、関西を代表する画家になりました。30数年前から関西各地の画廊や百貨店で個展を催していました。

 一度、姫路の画廊で個展があること新聞で知り、行きました、幸い彼が居て数人に取り巻かれて歓談していました、目が合ったので軽く会釈しましたが気が付かれなかったようです。ベレー帽を被り、髭をたくわえ、パイプを手にした姿はまさに売れっ子画家そのものでした、心の中で祝意を述べて帰りました。昨年秋頃、神戸新聞に随筆を寄せていましたのでご健在を知りました。

 若い頃、太宰治の小説は全部読み、多くのこと与えられました。「太宰ほど聖書を真剣に読んだ文学者はいない」とある評論が言っていました、このような言い方は好みませんが全面的に否定はしません。彼の影響を受けていた時代がありました、その頃、「道」に書いたのが以下の分です。50年前、キリスト教の殻をつけた自分の信仰がよく現わされています、神学校を出て3年、25歳の青年牧師の信仰と太宰治観、第三者には退屈でしょうが、しばらくお付き合い願えれば幸いです。

             太宰治について

 太宰治は誠実な文学者であった、というよりも誠実な人間であったという方がよいかもしれません。四十年の生涯に、三度も自殺をはかり、四度目に愛人と心中してしまった人間、その生涯の大半を酒の中で過ごしたような男を「誠実な人」とよぶことに、おそらく(不要ですね)疑念をもたれるかもしれません。それでは、こういい直しましょう。太宰治は自己に対して誠実な人であったと。

 以上で10分の1です、しばらく忍耐してください。

2012年1月 4日 (水)

謹賀新年

 新しい年、無事に楽しくお迎えされたことと思います。喪中で悲しみの中に居られる方何人か知りながらこの様な決まりきった挨拶することに心苦しさ覚えますが、悲しみを乗り越えてなど申しません、亡き愛する人と共に新しい年歩んでください、死は愛には克てません、愛は時空を超えて存続します。愛する人との交わりは永遠に続きます、新しい交わりの中で、喜び、悲しみを語り合い、共有して生き続けてください。

spadespadespadespadespadespadespadespadespadespadespadespadespadespadespadespadespadespadespadespadespadespadespadespadespadespadespadespadespadespadespadespadespadespadespadespadespadespadespadecarcarcarcarcarcarcarcarcarcarcarcarcarcarcarcarcarcarcarcarcarcarcarcarcarcarcarcarcarcarcarcarcarcarcarcarcarcarcar

 新年早々、堅苦しいもの書きましたが、今月中に書こうと準備していたものですので、整理されていません、申し訳ありません、もう少し時間と思考?を与えてください。

 

2011年12月31日 (土)

「網干より残日録」(13)愛の絆をより強く

    年とらぬ 積りなりしが 鐘の鳴る    助薫(じょくん)

     I intended Never to grow old,-

       But the temple bell sounds!

 作者については不明。敗戦までの日本では年齢は数え年だった、生まれた時が1歳、正月には1歳年を取ることになる、12月31日生まれの人は2日で2歳になる。敗戦直後、満年齢に切り替わったとき、みんな1歳若くなった筈であるが、混乱があったと思う。私にもその後遺症があり、自分の年齢をよく間違える。35年前、初めて訪中した時バスポートの年齢を間違え、飛行機の中で添乗員からこっそりと注意された、団体旅行だったので何事もなく帰られた。今回出版した本の中でも76歳になりましたと数か所で書いている、厳しいチェックをして下さった校正担当者もそこまでは気付かれなかったようです、今月初めに市役所から「高齢者特典」の書類をもらって自分が75歳であるのを知った。落語の「代書屋」の主人公を笑うことは出来ない。網干(あぼし)はお寺が多い、除夜の鐘が生(なま)で聞こえる、高齢の住職が一人で撞けば倒れてしまうから、お参りした人たちがみんなで撞いているのだろう。

 今年は大災害の年だったが、日本人の相互愛が見直された年でもあった、互いの絆が強くされたのがせめてもの救いだった。反面、科学信仰が完全に崩壊した。理性の限界を思い知らされ、自然への畏敬、神への畏敬が真剣に問われた。絶望のどん底に陥った時、人間にとって愛、相互愛が大きな力をもたらすことを知らされた。悩み、苦しんでいる人たちのために無償で奉仕する人たちの顔は美しかった、自分の生命を投げ捨てて多くの人を救った人もいた。彼らの死を無駄にしはならない。新しい年が相互の絆を強くし、希望に満ち溢れた年になるよう、自分に出来ることは何かを問い続ける1年にしたい。隣人愛が問われる1年になるだろう。

 年賀状は書けませんでした、皆様の上に平安と祝福が豊かにありますように。